
研究テーマ
制度と現場の間にある見えにくい構造を可視化し、社会実装につなげる研究
私の研究では、「国民の健康寿命の延伸」や「健康格差の縮小」といった社会課題の解決に向けて、2つの分野から新たな仕組みづくりに取り組んでいます。
1つ目は、国の健康づくりの方針である「健康日本21(第三次)」に賛同する様々な団体の取組や連携を効果的に推進するための“連携指標”を新たに開発することです。2024年からスタートした健康日本21(第三次)では、「社会環境の質の向上」「ライフコースアプローチ」を踏まえた上で、「個人の行動と健康状態の改善」を促し、「健康寿命の延伸と健康格差の縮小」の実現を目指すことが基本的な方向として示されています。その趣旨に賛同する関係団体によって構成されている健康日本21推進全国連絡協議会(以下、協議会)には、現在144団体が加入し、健康日本21推進においても大きな役割を担っています。その一方で、加入団体が健康日本21の各目標に対してどのように取り組んでいるのか、また、団体間の連携がどの程度行われているのかは十分に把握されていません。
そこで、現在は、協議会加入団体を対象に、健康日本21の普及啓発活動や推進体制、健康日本21(第三次)目標項目への取組状況や他団体との連携状況に関する調査を行い、分野横断的な接点や課題を抽出・整理し、連携指標開発のための基礎資料を作成しています。
2つ目は、職域、つまり、様々な企業や公的医療保険の保険者(健康保険組合、協会けんぽ、共済組合等)が福利厚生として実施してきたがん検診を、自治体で実施されているがん検診と同等に、科学的根拠に基づいた組織的な検診プログラム(organized screening program)へ整え、将来的には、自治体と職域のがん検診情報の一元化により、国民全体の検診情報に基づいたがん対策を進められるような体制構築を目指すことです。これまで職域では、有効性が十分に確認されていないがん検診や精度管理を伴わないがん検診が、福利厚生として広く提供されてきました。しかしながら、令和4年の国民生活基礎調査では、がん検診受診者の約40~70%が自治体ではなく職域で受診していると回答しており、このように日本のがん検診が国単位で統一されず、自治体と職域で別々に実施されている二重構造は、OECD(経済協力開発機構)からも公衆衛生上の課題として指摘されています。
そこで、現在は、法律・体制・事業者・保険者・検診実施機関等のあいだにある構造的課題を調査・整理し、チェックリストの開発や提言・論文の形で社会実装につなげていくための基礎資料を作成しています。
研究のきっかけ
病院および民間企業、健康保険組合での実務経験が、現在の研究の出発点です。
病院では、自覚症状があった、あるいはがん検診で要精検を指示されていたにもかかわらず、仕事を優先して受診に至らず、生活に何らかの支障が出るようになってから受診した後、ご本人も想像していなかったような速さで命を落とされる方々や、そのご家族と多く関わってきました。多くの方が、最期に近い時期まで「仕事に戻る」「やり残したことがある」など、仕事に関する話をされていたことが印象に残っています。
そうした経験から、働くことは大変である一方で、多くの方にとって大切な生きがいの一つでもあり、その働く場において、まだ元気な段階から支援できることがあるのではないかと考えるようになりました。病院で待つだけではなく、働いている現場で何かできることはないか、その社会構造の中に身を置き、働く方々と同じ立場から理解したいと考えたことが、複数の企業や健康保険組合で働くことを選んだきっかけです。
複数の企業・健康保険組合で働く中で、汎用性のある仕組みをつくっても組織内で完結せざるを得ないこと、法律や政策の意図が現場に十分に届かないこと、医療職とそれ以外の立場のあいだで言葉や前提がすれ違うことを繰り返し経験しました。こうした経験を通じて、働く世代の健康を支えるには、個別支援だけでなく、制度と現場の間にある構造的課題を整理し、次世代の実務や制度改善につながる知見として残す必要があると考えるようになりました。こうした経験が、博士課程進学と現在の研究テーマの出発点になっています。

研究上の工夫等

私の研究は、自身が複数の現場で実務を経験してきたことを土台に、制度の設計意図と現場での運用の間にある、見落とされがちな隙間や障壁を、客観的かつ科学的に捉えようとしている点が特徴です。
健康日本21(第三次)に関する研究では、目標項目の達成状況だけではなく、その普及啓発を長年にわたり支えてきた民間団体や関係機関の活動・連携の現状把握と解決策に注目しています。職域がん検診の研究では、法律・制度・企業・公的医療保険者(健康保険組合、協会けんぽ、共済組合等)・検診実施機関等の複数の主体の関係を一つの構造として捉え、どこで実務上の課題が生じているのかを整理し、実際の現場で活用できるチェックリスト案を作成するなど、より実装を意識した取組を行っています。
どちらも、様々な現場で共通していた違和感や可能性を、その場の感覚にとどめず、公の場でも検討できる形で言語化し、論文や提言として残すことを目標としています。こうした研究に取り組むうえでは、これまで医療機関、民間企業、健康保険組合という、法人格や設立目的の異なる組織の中で、それぞれ異なる言葉や前提を翻訳し続けてきた経験が活かせるものと考えています。
社会とのつながり
2本の研究はいずれも、制度と現場のあいだにある隙間を構造的に整理し、つないでいくことを目指しています。
健康日本21(第三次)に関する研究は、加入団体の取組や連携の現状を可視化することで、今後の持続可能な取組の推進や連携の基盤づくりに役立つ可能性があります。職域がん検診の精度管理研究は、現在多くの職場で行われているがん検診の質の向上に直接つながる研究です。開発したチェックリスト案が現場で活用されることをはじめ、がん検診の精度管理が職域にも普及し、自治体のがん検診との格差是正に寄与することを期待しています。
これらはいずれも、健康日本21(第三次)が目指す「社会環境の質の向上」の一助となるものと考えています。
また、博士課程修了後も、これまでの実務や研究経験を基盤に、自治体や様々な民間団体等と協力しながら、個人や組織の中に閉ざされたままになっている実践や成果を、再利用可能な知見として社会に残し、次世代の実務者や制度改善に活かせる形で還元していきたいと考えています。
今後の展望(研究)
健康日本21(第三次)に関する研究では、これまでに実施した調査結果をもとに、主たる活動分野が共通する団体別のワーキンググループを結成し、団体の立場からどのような指標が必要かを検討しています。今後は、それらの結果をもとに、指標の精緻化と団体間のネットワーク形成の促進を進めたいと考えています。併せて、調査結果に基づき、国・学術団体と協議会加入団体間の情報連携体制のアップデートも必要であると考えています。
また、職域においては、企業・公的医療保険者(健康保険組合、協会けんぽ、共済組合等)等における健康増進施策全般の実務支援を通じて、法制度や研究は決して専門家だけのものではなく、現場の人々やこれから育つ未来の世代の人々にも直接関わるものであることを、分かりやすく伝えていく役割も果たしたいと考えています。その上で、働く世代の健康増進施策の中でも、近い未来の命に直結するがん検診の体制整備については、経営者にも労働者にも正しい情報が伝わるよう努めていきたいです。
さらに、現在進行中の2本の研究テーマを発展させつつ、地域と職域の連携をテーマとした研究にも取り組んでいきたいと考えています。健康日本21(第三次)のさらなる推進に向けて、都道府県、市町村、職域等、さまざまな担い手の有機的な連携が求められており、「地域・職域連携推進事業の新たなる展開」が示されています。一方で、自治体と職域の実務者が日常業務の中で互いの根拠法、役割、運用体制、活用可能な資源等を理解し合う機会は十分とは言えません。国が「レベル1」として示す地域・職域連携推進協議会をより充実させるには、その前段階として、互いの前提を知り、協力し合える関係性を育む土台が必要であると感じています。そこで今後は、自治体と職域の実務者が、前提の違いや、情報・資源へのアクセスの壁を持ち寄り、相互理解を深める対話の場を通じて、連携の土台となる「レベル0」のあり方を模索する機会の創出にも取り組みたいと考えています(写真は日本公衆衛生学会で全国の自治体関係者の皆さんと)。

今後の展望(キャリア)
研究と実務の両方に軸足を置きながら、公衆衛生の制度・研究と現場をつなぐ役割を担い続けることが目標です。
博士課程で現在培っている国内外の動向を俯瞰できる客観的かつ科学的な研究の視点と、これまでの実務経験で培った生活を営む人々の物語(ナラティブ)に目を向ける視点を組み合わせることで、「研究成果を社会実装につなげること」に継続的に貢献できると考えています。
自治体・企業・公的医療保険者・医療機関等、異なるセクターが協働できるような公衆衛生の仕組みづくりをデザインする研究者・実務者の両方の立場から関わり続けていきたいと考えています。
社会へのメッセージ
私たちの毎日の健康な暮らしは、個人の努力だけで成り立つものではなく、実はさまざまな仕組みに支えられています。こうした仕組みは、多くの研究者や実務者が長い時間をかけて検討し、見直し、社会に定着させてきたものです。健康は、一人ひとりの暮らしを支える大切な財産であると同時に、社会全体の持続可能な発展を支える基盤でもあるからです。
一方で、こうした仕組みやその目的、そこから受けられる支えや恩恵、それらを適切に活用するための知識について、一人ひとりが理解しやすい形で知ることのできる機会は、まだ十分とは言えないと感じています。研究を通じて、そうした制度と現場の間にある課題を分かりやすく整理した上で、多くの方になじみのある言葉に翻訳して伝え続けることで、一人でも多くの方が医療や健康に関する知識を自然に身につけ、人生におけるよりよい選択や行動につなげられるような環境づくりに貢献していきたいと考えています。
企業の方へのメッセージ
企業の活動の中には、すでに多くの工夫や実践があり、それらは広く人々の暮らしや社会を支えていると感じています。研究を通じて、個々の企業で培われてきた強みと、社会構造の変化の中で見直しが必要な部分を整理し、企業の社会的価値にもつながる形で、よりよい仕組みづくりや社会実装につなげていくお手伝いができればと考えています。
後輩へのメッセージ
博士課程は一部の特別な人だけのものではなく、社会のさまざまな現場で抱いた問いをより深く考え、研究という形で社会や未来につながる知見へと育てていく力を身につける場所でもあると思います。皆さんが今、何らかの現場で感じている違和感や関心は、時間をかけて向き合い続けることで、将来、研究と社会実装をつなぐ強みになることもあるかもしれません。