研究テーマ

鉱山跡地における「放擲された空間」

人間のいなくなった土地に残された「放擲された空間」について研究しています。耳慣れない言葉かと思いますが、空き家や空き地、耕作放棄地、シャッター街化した地方商店街など、人口減少の進む日本の地方を中心に、そのような空間を目にしたことがある方は多いかと思います。私の研究では、鉱山跡地を具体的なフィールドとしています。鉱山跡地は、国内において人口減少に伴う空間の縮退に先行して、人がいなくなった土地です。そのような「放擲された空間」はこれまで、現状を悪いものとして捉えられ、改善すべき、もしくは再利用すべき空間として一義的に扱われてきました。ただ、すべての放擲された空間に人間が手を加えることはもはや現実的ではなく、そもそも人間中心的な思考の外側に出た時、そこは本当に悪い空間なのでしょうか。そうした疑念を発端とし、環境哲学や人類学の議論を援用しつつ、それらと実際の具体的な土地を結びつけながら、「放棄」から「放擲」へと思考を促すことを目指して研究しています。

研究のきっかけ

大学学部時代と修士課程では建築学科に所属していました。建築学科の4年生は卒業前に卒業設計に取り組むのですが、その時に秋田県大館市にある花岡鉱山跡地を設計対象地にしたのが最初のきっかけです。花岡鉱山跡地は、特に観光化された場所でもなく、過去を示す建物や遺跡もまったく残っていないような土地でした。それにもかかわらず、私はその場所で現地調査を行った際の風景に圧倒され、その時の感覚に取り憑かれて、博士課程にまで来てしまったという経緯です。その風景は、風光明媚などとはとても言えず、人工的なのに誰もおらず不気味な感じがして、だけれどもある種の美的な感覚もありました。その複雑な感覚をうまく言語化し論じるために、建築学や計画学の分野を超えて、さまざまな分野を横断的に研究しています。

研究のきっかけ

研究上の工夫等

私の研究対象は、いわゆる科学的方法では非常に扱いづらく、「こんなの論文にならない」と言われてきたようなテーマです。ですので、科学論文として説得力を持たせるために、客観的なデータを自分自身でどう「読み替え、見立てる」のかがすごく重要になってきます。具体的に例を挙げると、現在私は、鉱石から有用資源を選鉱・精錬する過程で排出される滓を堆積させるための尾鉱ダムのデータベースを活用して研究しています。このデータは、尾鉱ダムの決壊事故がかなりの確率で起こっており、地域への甚大な被害が出てきたため、防災工学の観点から、また世間からの監視という側面から公開されているものです。私はこのデータを「尾鉱ダムの実態」として扱うというよりは、「広範囲の都市化を図る指標」として扱っています。なぜそう扱えるのかの説明は省略しますが、悲惨な現実にしっかりと対峙した上で、それらを「読み替え、見立てる」想像力が、私の研究において最も重要な鍵となる部分です。

社会とのつながり

基本的に具体的なある地域を対象としているので、地域社会との関わりが重要です。ただ、私の研究は放擲された空間の改善や利活用を前提としていないので、明快な解答が提示されて、魅力的な空間が実現するわけではありません。私の研究をそのまま地域の方々や実務者に提示しても、思考が宙吊りにされ、「じゃあ具体的にどうすればいいんだ」となることは間違いありません。私は博士課程に進む前に東北地方で4年間、建築士として働いてきたので、地域社会に研究を落とし込む重要性も自覚しています。解答を提示するのではなく、「具体的にどうしていこうか」と議論の場が地域に生まれることを目指し、研究をどう翻訳していくのかが、博士論文の最後の肝になってくると思います。

今後の展望(研究)

これまでは鉱山跡地のローカルな歴史や現状に着目して論じてきましたが、鉱山という機能は国外のどこか遠くに移されており、密集した都市に住む我々はそこから輸入された恩恵を受けていることを、どう考えればいいのかと思うようになりました。現在、グローバルな視座からも研究を進めており、ローカルとグローバルな視座を往還しながら、放擲された空間に迫っていければと思います。

今後の展望(キャリア)

研究を社会に実装することにも取り組んでいきたいと思いますが、教育者として下の世代に伝えていきたいという思いがあります。上記でも触れましたが、「見立てる」という言葉は、私の指導教員である石川初先生がよくおっしゃるものです。何かを作ったり実現させたりするだけでなく、「見立てる」という態度もまた、世界の見方を変える重要な手法の一つだというメッセージが込められています。この「見立てる」という態度を広めていくためには、人から人に直接伝えること、すなわち教育という方法が最も適していると思っています。

後輩へのメッセージ

4年間社会人を経験して実感したのは、仕事や日常生活をこなすのに必死で、ほとんどの人が考える体力と時間なんてない、ということです。そのような社会の中で、博士課程は考える時間を与えられた本当に贅沢な期間だと思います。さまざまな人や制度に支えられたその期間をありがたく思いながら、自分の思考を追求する人が一定数いてもいいのではないかと思っています。