
システムデザイン・マネジメント研究科
甲谷 勇平さん
研究テーマ
心理的安全性能力成熟度モデルの開発と評価 ―運動部活動部員のバーンアウト予防を志向して―
高校や大学の運動部では、練習の厳しさや人間関係などのストレスによって、やる気がなくなったり心身が疲れ切ってしまう「バーンアウト(燃え尽き)」が起こることがある。そんなバーンアウトは、競技からの離脱や反社会的行動に繋がるリスクがあるため、部員が健やかに成長していくためには、このバーンアウトを防ぐことが重要な課題となっている。しかし、バーンアウトが起きてしまった後に専門家のカウンセリングなどで支援する方法は、多くの運動部では人員や費用の面から実施が難しいのが現状である。そのため近年では、問題が起きてから対応するのではなく、そもそもバーンアウトが起きにくいチーム環境を作ることが重要だと考えられるようになってきた。その環境づくりの中で注目されているのが「心理的安全性」である。心理的安全性とは、チームの中で安心して意見を言えたり、失敗を恐れずに行動できたりするチーム風土のことを指す。このような環境があると、部員は無理を抱え込まずに周囲と相談したり助け合ったりすることができるため、精神的な負担が軽くなり、バーンアウトを未然に防ぐことが可能となる。しかし、チーム風土はそれぞれのチームの歴史や人間関係、指導方針などによって大きく異なるため、チーム風土である心理的安全性の向上に向けて、すべてのチームに同じ方法を一律に当てはめても効果が出るとは限らない。そこで本研究では、各チームの状況に合わせながら心理的安全性を段階的に高めていく方法を開発することを目的とした。その際に参考にしたのが、ソフトウェア工学領域で開発された「能力成熟度モデル」という枠組みである。これは、ある特定の組織のプロセス(もともとはソフトウェア開発プロセス)を段階的に改善しながら成熟させていくための枠組みであり、この考え方を応用して本研究では「心理的安全性能力成熟度モデル(PS-CMM)」という手法を開発した。この手法では、心理的安全性に影響を与える要因を先行研究から整理して介入対象チームに提示し、各チームの文脈に合致した要因を選択したうえで、その要因にアプローチするための独自のチーム実践を検討し、継続的に改善を進めていくことができるようになっている。本研究ではまずPS-CMMのプロトタイプを作成し、その運用を通じて見えてきた課題を改善したPS-CMMを作成した。そして大学のハンドボールチームと高校のバスケットボールチームを対象に、この方法を4週間運用し、その効果を検証した。その結果、改良版の手法を使用したチームでは、定量的にチームの心理的安全性の中でも特に、メンタルヘルスに関する心理的安全性が介入前後で統計的に有意に向上していることが確認された。さらに、定性的にはメンタルヘルスに限らず指導者とのコミュニケーションやチームの中心メンバーを含むチームコミュニケーションに対する心理的安全性も向上していた。また、改良版を使用したチームの方が使用していないチームと比べて心理的安全性がバーンアウトに与える影響がより強くなることが確認され、この手法がバーンアウトの予防にも役立つ可能性が示された。本研究の意義は、これまで具体的な方法があまり示されてこなかった「チームの心理的安全性を高めるための実践的な方法」を、実際の運動部で試しながら体系的に提示した点にある。また、心理的安全性がバーンアウトを防ぐメカニズムについても明らかにしたことで、この方法を継続的に活用すれば、運動部に所属する部員の健全な成長を支えることにつながる可能性が示された。さらに本研究は、これまで主に個人の知識やスキルを高めることに焦点が当てられてきたチームトレーニング研究領域に対して、チーム風土そのものを計画的に改善するという新しい視点を提示したという点でも重要な意味を持っている。そして、チーム風土のように目に見えにくいものを、段階的に設計し改善していく方法を示したことは、複雑な組織や社会の仕組みをデザインするシステムデザイン・マネジメントという学問にも貢献する成果である。
研究のきっかけ
本研究テーマを選んだきっかけは、学部時代の体育会活動である。学部4年生の時、私は体育会バスケットボール部の主将としてチームを引っ張り、まとめる経験をさせてもらった。当時の私は、“いいチーム”というのは「メンバーの誰もがチームに対する課題や改善策を共有し合って、リーダーに依存しない自律的なチーム」だと考え、自分が先頭に立って引っ張るのではなく、積極的に傾聴姿勢を示そうと努めていた。しかし、直面した課題が「誰も何も言ってくれない」状況だった。一人ひとり個別に意見を聞けばみんな意見を伝えてくれるのに、それがチーム内に共有されず、リーダー陣ばかりが疲弊していく課題に直面した。
当時印象的だった後輩の言葉に「甲谷さんが主将になったっていうだけで何か距離を感じるようになってしまいました」という言葉があった。これにはとても衝撃を受けた。立場が関係性を簡単に変えてしまうことをここで学んだ。そして、この課題は多少の改善を見せたものの、自分の代が終わるまで完全に解消しきることはできなかった。そして、私は部活動を引退した後「どうやればあの時“いいチーム”が作れたのだろうか」と悶々と振り返る日々を過ごしていた。そして、もっと自分のこの経験を客観的な視点から捉え、他の人と共有できるようにしたいと考え、大学院に進学して「メンバーの“チームにとってプラスになる行動”をどのように促すか」について研究しようと考えた。そして、大学院での研究計画を検討しているタイミングで出会ったのが「心理的安全性」という概念だった。この言葉を聞いた当初は、「何、生ぬるいこと言ってるんだ」と敬遠していたが、チームマネジメントに関する論文を読む中で、心理的安全性は実は自分が作りたかったチームを実現できる1つの要因なのではと感じ始めた。そうして、私が主将を務めていた当時は、意見を言ってもらうために個別に介入していたものの、チームとして意見が言いづらい雰囲気があったのではないかと、ここでようやく気づくことができた。そこで私は、当時主将だった自分を救うための方法として本研究のテーマを設定するに至った。

研究上の工夫等
本研究の独自性は、これまで心理学や経営学領域を中心に研究蓄積が進んでいたチーム風土である心理的安全性の向上手法の開発に向けて、工学領域で使用されてきた能力成熟度モデルという枠組みを用いた点である。この分野横断の視点によって、チーム風土という目に見えない空気のようなものを、工学的な観点を用いたことで、目に見えるチーム実践の成熟度を段階的に高めていくことを通してアプローチするというプロセスへと転換することを可能にした。
社会とのつながり
4週間という比較的短期間の介入によってチーム風土が醸成できる可能性を示せたことで、あらゆるチームのライフサイクルに本研究の提案手法であるPS-CMMが合致すると考えている。つまり、どのチームでもPS-CMMを導入することが可能である。そのため、今後はPS-CMMのユーザビリティの向上を図ったうえで、本研究の対象者であった運動部活動チームに拡大しながらも企業組織への導入を試みる。そうして、社会に数えきれないほど存在するチームの心理的安全性を高めることで、チームのパフォーマンスが向上し、社会全体の発展に微力ながら貢献できればいいなと考えている。

今後の展望(研究)
本研究において開発したPS-CMMは、介入者(ファシリテーター)への負担がかなり大きいため、今後はAI技術をPS-CMMに組み合わせることで、より多くのチームにPS-CMMを提供できるようになると考えている。もしくは、介入者を必要としないセルフアセスメントツールのような形態にブラッシュアップすることで、自チームのメンバーだけで心理的安全性を高めることを可能にする枠組みの開発も検討している。そして、研究だけではなく社会実装までを視野に入れているため、PS-CMMを用いたチーム開発プログラムを体系化し、商品として多くのチームに提供できるような事業開発にも着手していきたい。
今後の展望(キャリア)

博士研究によって「目に見えないものをシステムデザインの観点からアプローチして変容させる」ことの醍醐味を経験した。そのため、今後は視野を広げて「チームワーク」という現象をよりよくするための手法の開発に着手したい。それには、ぜひ研究者と実践家の両側面からアプローチしたい。よって、今後のキャリア展望としては、大学教員を志しながらも自身で事業を起こし、研究と実践の両輪を回していきたい。
社会へのメッセージ
私にとって研究は社会を豊かにするための一つの手段です。社会の発展や社会の課題解決のために私ができることが研究です。
そのため、私は「研究で社会をより良くする」という哲学のもと研究活動に取り組んでいます。
現場の現象から研究課題を見つけ、研究の知見を使って現場を改善する。そして、また新たな研究課題を見つけるという旅を今後も続けていきたいです。
企業の方へのメッセージ
私は、チーム風土という「目に見えない現象」をいかに意図的にデザインしていくかに興味関心があります。
そして、博士課程では心理的安全性という目に見えない現象を段階的に醸成していく枠組みを開発しました。
100チームいれば100通りの心理的安全性の高め方が存在するように、本研究で得られた知見を今後さらに発展させ、現場の課題解決に貢献していきます。
学生、他研究機関へのメッセージ
私にとって研究とは、現場を理解し、課題を解決するための1つの手段です。
私の博士研究のように、1つの学問体系では解決が難しい現場課題に対しては分野横断的なアプローチが求められます。
私は博士研究で、課題解決に向けた分野横断的(学際的)アプローチの重要性を学びました。
ぜひ今後は様々な研究者と協働し、それぞれの興味関心や専門性を結集させて現場課題の解決と新たな知の創造に取り組みたいです。
後輩へのメッセージ
私は、研究はコレクションのようなものだと考えています。自分のこれまでの知の探究を論文という形でファイリングし続け、後で振り返ることができます。
また、研究成果を発表すれば、後世に自分の名前を残すことができます。研究を続けた人にしかわからない達成感や人としての思考の深みを目指せることが研究の面白いところです。
ぜひ自分の知的好奇心が赴くままに楽しい研究の旅路を謳歌してください。