
世界で活躍する博士人材育成を目指して
―Keio-SPRING グローバル・
シティズンシッププログラム―
本学では、2024年度から、採択学生を対象とした海外派遣プログラム「グローバル・シティズンシッププログラム」を開始しました。
初年度は、13名の博士課程学生がニューヨーク州で10日間の研修を実施。プログラムを統括する泰岡顕治教授、浅井誠特任教授、加藤靖浩特任講師、そして参加学生を代表して菖蒲健太さん、白鳥俊宏さん(ともに理工学研究科博士課程1年)に、このプログラムの意義と成果についてお話を伺いました。
INTERVIEWEE

泰岡 顕治
理工学研究科教授
Keio-SPRINGプロジェクト事業統括
(2025年1月時点)
分子動力学シミュレーションを用いて、気相から液相、液相から固相への相変化過程や、閉じ込め液体、クラスレート水和物、タンパク質、液晶、ミセルに関する様々な現象を分子シミュレーションを用いて、ミクロな視点から解明することを目的とした研究を行っている。並列計算機、GPUを用いた大規模シミュレーションも実施。機械学習を用いて分子シミュレーションのデータの解析を行う研究もしている。

浅井 誠
グローバルリサーチインスティテュート特任教授
(2025年1月時点)
慶應義塾大学大学院理工学研究科で博士号を取得後、ニューヨークのコロンビア大学化学工学部で研究生活を過ごす。2021年より現職。コロンビア大学時代に若手研究者の会を運営し、のべ4000人以上の参加者を集め、世界中に広がる学際的な研究者ネットワークを作る。世界最高峰の大学のダイナミズムを肌で感じるうちに、日本のアカデミアに強い危機感を持つようになり、100年先を見据えたテクノロジーを日本から発信するべく、新しい産学連携の仕組みづくりを目指した活動も行っている。

加藤 靖浩
理工学研究科特任講師
(2025年1月時点)
博士(生命農学)。水分子の構造と機能に関する研究を基盤に、アクアフォトミクスを活用した水質評価や、医学・環境分野への応用研究に従事。水の状態を可視化することで社会課題の解決を目指し、Aquaplatform の構築に取り組んでいる。ジョンズ・ホプキンス大学および北京大学での海外研究経験を持つ。2021年より慶應義塾大学グローバルリサーチインスティテュート(KGRI)特任講師として研究に携わるとともに、2040年の社会課題解決を目指す 「2040コミュニティ」 の運営にも従事。現在は理工学研究科に所属し、産学官連携による技術開発や教育プログラムの企画にも取り組み、持続可能な社会の実現に向けた研究を推進している。

菖蒲 健太
理工学研究科博士課程1年
(2025年1月時点)

白鳥 俊宏
理工学研究科博士課程1年
(2025年1月時点)
- http://www.takahashi.mech.keio.ac.jp/
- https://www.linkedin.com/in/toshihiro-shiratori-71a643348
- toshishiratori@keio.jp
研究課題
MEMS, Biomechanics
グローバル・シティズンシッププログラムの目的と背景を教えてください。
- 泰岡
- 本プログラムの背景には、日本の博士人材育成における構造的な課題があります。JST(科学技術振興機構)が実施している「次世代研究者挑戦的プログラム(SPRING)」は、もともと博士後期課程学生への研究支援を主眼としていましたが、2024年度からはプラスアルファで“より広範な海外活動支援”が追加されることになりました。 これは現代の博士人材に求められる能力が、専門分野の研究能力だけでなく、より広い視野とグローバルな活動力にシフトしていることを反映していると考えられるでしょう。
- 浅井
- 泰岡教授の言われているように、このような博士人材育成の新たな方向性は、産業界が直面する課題に対応しているといえます。 現在、日本政府が推進する「スタートアップ育成5か年計画」において、革新的ビジネスの創出や社会課題解決による持続可能な経済社会の実現に向け、大学発スタートアップの強化が重要施策として位置づけられています。しかし、現状では高度な専門性と起業家精神を併せ持つイノベーターが圧倒的に不足しています。日本の博士人材の多くはアカデミアにとどまる傾向にある一方、米国などの主要大学では、優秀な博士人材がスタートアップの立ち上げや既存企業でのイノベーション創出に積極的に携わっています。
- 泰岡
- このような状況を踏まえ、本学では博士課程学生たちに海外で世界最先端のイノベーション・エコシステムを直接体験してもらい、自身のキャリアの可能性を広げてもらいたいと考えました。特に、産学官の連携がどのように機能し、博士人材がどのような役割を果たしているのかを体感する機会を提供することが重要だと判断したのです。
SPRING採択校において、同様に博士人材を海外派遣する取り組みはあるのでしょうか。
- 浅井
- SPRINGは国内の主要大学で活用されていますが、いずれの大学でもあくまで国内で、従来型の研究者養成や学術研究活動の枠組みの中でキャリア支援が行われているように見受けられます。前述の“より広範な海外活動支援”という要件が追加されてまだ間もないということもあるかもしれません。
- 泰岡
- 本学の取り組みの特徴は、研究活動の枠を超え、海外の産学官連携の現場に直接学生を送り込む点にあります。今回は「AI Hardware Center 研修プログラム」と題し、世界有数のイノベーション・エコシステムを持つニューヨーク州アルバニー(Albany)で、IBM Research AI Hardware Centerをメインに複数の施設で実地研修を実施し、現地調査やヒアリングを通して米国の産学官リレーションシップエコシステムがどう機能しているかの実態を把握するということを目的としました。 研究活動と実践的な産学官連携の現場体験を同時に提供するという海外研修は、博士人材育成プログラムとしては先駆的な試みといえます。また、往復航空券や現地交通費、宿泊費、各種経費等はSPRING資金から支出しているので、学生は金銭的な負担なく海外派遣と現地プログラムに集中できるという利点があります。
では、学生のお二人にお話を伺います。このプログラムに参加したきっかけを教えてください。

- 白鳥
- 博士課程の位置づけや大学の役割が欧米と日本とでは異なる、という話はよく耳にしていましたが、その実態を自分の目で確かめたいと思っていたことが一つ。もう一つが、AI分野や半導体産業において日本が遅れをとっているという現状認識があります。特に半導体分野はかつて日本が強みを持っていた分野であるにもかかわらず、製造装置以外では競争力を失っています。この問題の本質は技術開発だけでなく、もっと根本的なところにあるのではないかといった課題の構造を、グローバルな視点から理解したいと考えたことも、参加の動機となりました。
- 菖蒲
- 自分の専門とは異なる分野にも積極的に飛び込んでみたい、海外にも視野を広げたいと考えていた中で本プログラムの案内があり、良い機会だと思って飛び込んでみました。 メンバーは、メディアデザイン、心理学、会計学など多専攻から参加者が集い、留学生もいましたね。
現地ではどのような活動を行ったのでしょうか?
- 白鳥
- ニューヨーク州のアルバニーでは、非営利法人であるニューヨーククリエイツが運営する「Albany NanoTech Complex」に、IBMや東京エレクトロン、アプライドマテリアルズなど多くの半導体関連企業が入居しています。このコミュニティが集積したエリアを主な拠点として、各企業や州政府、大学など様々な機関を訪問しました。
- 菖蒲
- 衝撃的だったのは、10日間の海外研修で訪問先としてプログラム組み込まれていたのがニューヨーククリエイツ、IBM、TELの3か所で、それ以外のスケジュールは自分たちで決めていく形だったことです。事前の想定では毎日どこかに訪問する予定でしたが、日本にいる間にはアポイントを取ることに苦戦していたので、現地でアポイントを取りながら上手く進められるだろうかと不安な気持ちのまま、羽田から出国したことを覚えています。
- 白鳥
- 現地では、各訪問先での対話から新たな人脈を広げ、翌日の訪問先を開拓していく形で進めました。宿舎に帰宅してから学生同士でミーティングしながら今日の振り返りと翌日の準備をする…という繰り返しでした。夜中まで議論したり、意見をぶつけあったこともありました。
- 菖蒲
- 学生同士の分野が異なっていたことで、お互いの見えているところが違うからこそ建設的な議論が繰り広げられました。インタビュー時間よりディスカッション時間が多かったほどです。


結果的に日々1、2か所の訪問をされて、訪問後は学生同士でのディスカッションをして、サマリーレポートを作成して…。なかなかハードな日々だったのではないでしょうか。
- 加藤
- まさに狙いはその点にあって、あえて詳細な予定を組まず、意図的に余白を残したことが今回のプログラムの特徴的な点です。学生には事前に伝えませんでしたが、異なる専門分野の博士課程学生がチームとして現地で出会った人々とのつながりを自ら開拓してネットワークを広げ、アポイントメントを取り、調査を進めていく。受け身の学習ではなく、試行錯誤のプロセスを経ることによってテーマの発展も見られましたね。
- 菖蒲
- 実際、かなりタフで睡眠不足の日もありました(笑)。ただ、その狙いは何となく全員が理解して、主体的に行動していたように思います。 引率してくださった先生方もご自身のお仕事や各種タスク、日本とのミーティングなどを抱えながらと多忙だった中、加藤先生が朝食とコーヒーを用意してくださったり。嬉しかったですね。
- 白鳥
- 参加学生で食事に行ったり、半日ほどオフを作って、現地の美術館に行ったりスポーツ観戦をする時間も捻出しました。そこで意気投合して、帰国してからも連絡を取り合うような良好な関係を築くことができています。

このプログラムを通して得た知見や、キャリア展望の変化などはありましたか?
- 菖蒲
- 異なる専門分野の博士課程学生と行動を共にして印象的だったのは、同じ対象にアプローチする際にも、各専門の視野を活かした多様な分析視点があることです。例えば、私は技術的観点から物事を見がちでしたが、会計学からは収益構造として、社会システムからは制度設計として、心理学からは人間行動として、それぞれのユニークな視座から学ぶ機会を得ました。また、彼らとのディスカッションを通しての発見もあります。以前は「専門知識をどれだけ持っているか」が博士の価値だと思っていたのですが、ビッグデータやAIの時代、単なる知識の蓄積やデータの中から情報を取り出すという能力では人間はコンピュータを超えられない。私たち博士の真の強みでありコアとなる部分は“考える力”にあるということも今回体験したことの一つです。
- 白鳥
- その認識に強く共感します。このプログラムで、インタビュー先の担当者から「博士課程の人材は、産学官のすべての領域で活躍してほしい。博士の価値は専門知識だけでなくディープシンキング、要は“深く考える力”にある」との指摘を受け、課題分析から解決策の立案・実行、成果共有までの一連のプロセスをマネジメントできる人材が、産学官各セクターで求められていることを実感しました。特に、行政分野でのキャリアパスに関してももっと博士人材が挑戦していくべきだと考えるようになりました。
- 菖蒲
- キャリアパスに関しては、これまではアカデミアに残って研究開発に邁進したいと考えていました。ただこのプログラムを経験したことによって政策立案や産業界でのイノベーション推進などにも視野が広がり、今ではどのフィールドに進んでいくかは完全な白紙です。むしろ、その可能性の広がりに、ワクワクしています。
- 白鳥
- 私自身も、アカデミアを軸としながら、産業界や行政との連携も視野に入れたキャリア構築を検討しています。
- 浅井
- 学生たちのこのような気づきは、まさに私たちがプログラムに期待していた効果の一つです。現代のイノベーション・エコシステムでは、「専門性」と「越境性」の両立が不可欠です。博士人材には、深い専門性を持ちながら、異分野との対話や協働を通じて新しい価値を創造する能力が求められています。今回の参加学生たちの経験や成果は、まさにそうした次世代リーダー育成の可能性を示唆するものといえるでしょう。
菖蒲さん、白鳥さんから、これから博士課程への進学を考える後輩たちへメッセージをお願いします。

- 菖蒲
- 「考えすぎないで飛び込んでみる」ことをお勧めします。不安を数え上げている時間があったら、まずチャレンジしてみる。Keio-SPRING等のサポートもありますし、必要なものは後から付いてくるはずです。
- 白鳥
- 博士課程の意義は、必ずしも特定分野の専門家になることだけではありません。様々な知見やつながりを得る機会として捉えることもできます。一つのことを深掘りするだけでなく、幅広い可能性に目を向けてほしいと思います。
先生方、今後のプログラムの展望をお聞かせください。
- 加藤
- 現地での経験を通じて学生たちの大きく成長した姿が見られたことに加え、帰国後もつながりを持ち続け、自発的に新たな取り組みを始めようとする姿は、まさにイノベーションのスモールステップだと感じます。この後のフォローアップも私たちの重要な役割の一つであり、彼らを今後もサポートしていきたいと考えています。
- 浅井
- 博士人材の活躍の場を広げていくには、従来のアカデミアキャリアに限定することなく、産業界、特にスタートアップ領域での新たな可能性を提示することは一つの手段であり、本プログラムは、まさにそうした観点から大きな意義を持つものとなりました。今回の経験を次年度以降のグローバル・シティズンシッププログラムに活かし、グローバルな視点と革新的なキャリアパスの選択肢を実践的に学ぶ機会の提供と、さらなる進化を目指していきたいです。
- 泰岡
- 本プログラムを通じて得られた知見は、日本の博士人材育成システム全体の変革にもつながると感じています。将来的にはこの経験を他大学とも共有し、より多くの大学で博士人材の育成プログラムが展開されることを望みます。特に、産学官の壁を越えた人材育成の新しいモデルケースとして、今後も積極的に発信していきます。次年度以降は国連機関での研修など、プログラムの幅を広げていきたいです。